【第1次産業を地域再生の光に】(7) 子どもたちにあこがれられる養豚業の創造を

地域と共に歩み続ける企業めざし、経営への強い思いを覚悟を持って引き継ぐ (株)山形ピッグファーム 専務 阿部 秀顕氏(山形)

阿部専務

 4頭の繁殖豚から始めて44年、現在2万5000頭を育てる県内1の養豚業として発展してきた(株)山形ピッグファーム(阿部秀俊社長、山形同友会会員)。全国で7万戸あった養豚業はこの10年で10分の1に。県内でも約100戸と激減。来年には社長交代する阿部秀顕専務が、社長の思いを引き継ぎ、さらに「食」へと経営課題を広げ、日本の農業を守るという社会的使命に燃える想いを、第38回青年経営者全国交流会分科会で報告しました。「報告集」より要旨を紹介します。

「豚の命をいただいて生きてきた」と後継者に

 当社の創業者は、現社長である私の父親です。私は、幼少時から養豚場の中で育てられ、父母の仕事ぶりもよく見てきました。豚には愛着があり、好きな動物でしたが、周りの子どもたちからは、「汚い」「臭い」と言われました。休みも無く、子どもにこんな思いをさせるこの仕事は本当にいい仕事なのかという疑問が、私の根底にありました。

 「継がない」と明言する長男がいたので、父は次男の私をいろいろと「洗脳」したようです。大学は畜産の大学に進学。公務員志望に揺れる私に、アメリカへの1年間の留学という「餌」を用意。アメリカでは養豚のおもしろさも学びました。

 そこでいろいろな人と出会い、1つのことに気づきました。それは「私も豚の命をいただいて生きてきた」ということでした。父が養豚で苦労しながら大学を卒業させてくれたのだから、本気でやらないといかんと思い至ったのです。帰国してすぐに入社しました。

ピンチを転機として

 入社して4年目には常務になり、現場を取り仕切るようになります。そして、管理の方法などさまざまな部分で、社長との確執が生じました。

 現場に来ては全部変えていく、典型的なわんまん型の社長です。挑戦と失敗を重ねる社長の横で「またこれをやるのか、大丈夫かな」との疑問も少なくありませんでした。豚の死亡率が下がらない、社員も定着しないなど、大きな経営課題も残されたままでした。

 そのような当社に転機が生じます。2003年5月18日に火災に見舞われ、2000頭の豚を失ったのです。文字通り深刻なピンチでした。

 その日、私は千葉に行っていました。深夜の2時ころ電話で報せを受け、血の気が引きました。明け方現場に着いたのですが、豚舎が黒こげになり、豚も真っ黒になって死んでいる光景は、今でも思い出すと泣けてきます。

 死んだ豚の腐敗もすぐに始まるので、徹夜で処理に奔走し、社員と共につらい思いをしました。しかし、その結果として、みんなの気持ちがひとつになったと感じました。

環境3法改正への対応を通して

 2004年、環境3法が変わり、豚のし尿処理や堆肥の保管方法などが厳しく規制されるようになりました。当社の施設からし尿などの廃液を流すことについて、住民との協定を結ぶことが必要になりましたが、反対の声が大きくなり、1滴も流すなと要求されました。処理費用が高額になるため、倒産の危惧を感じるほどでした。

 悩んだ末、社長と専務の私と常務の3人で、住民の家を1軒ずつ訪問し、頭を下げてお願いすることにしました。怒られながら歩くわけですから、それはつらい仕事でした。私は足がすくむ思いでしたが、社長は精力的に歩いていきました。そして、なんとか住民の皆さんから、協定の同意をいただくことができ、本来の形での操業が可能になったのです。

 それまで、頑固なだけにしか見えなかった社長でしたが、課題を共有し克服してくる中で、社長の覚悟や強い「思い」を学ぶことができたのです。社長も、大きな課題を社員全員の力で乗り切ってきたことで、現場を任せてくれるようになりました。

社員の声が生かせる会社に

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 まず、生きた親豚(生体)の導入をやめ、精液だけの導入にしました。生きた豚は、病気のキャリア(運搬者)になる可能性が高く、1頭の豚の病気によって2万頭の豚が同じ病気になる危険性もあったからです。

 人間の「シャワーイン・シャワーアウト」も導入しました。それまでの当社は、豚の病気が多い養豚場でした。この取り組みは、優秀な他社の養豚場を見せていただいた社員からの提案・進言で実行されたものです。社員の声や知恵が生かせるようになったことは、大きな変化でした。

 ここ数年、さまざまな成績がみるみる上がってきています。人材も採用できるようになりました。定着しなかった人材が、定着し育ってきたと感じています。

経営指針書作成を契機に

 社長は65歳、私が40歳で交代すると計画的な事業承継を公言しています。来年の1月1日に、いよいよ社長を交代する予定です。

 そのことを前提として、社長から「私の経営指針をつくれ」と言われました。当社には社長が同友会で学びながら成文化した経営指針があり、私はそれを実行する立場でした。今度は後継者として、自身の経営指針をつくることになり、同友会での学びと成文化の過程でたくさんのことを考えさせられました。

 後継者が後継を望まないような会社であれば、社員として働きたいと望む人もいない。自分自身が子どもの時に感じていたことと同じつらい思いを社員にさせてこなかったかとも考えさせられました。喜んで働いてもらえる会社に変えていくしかない。何とかして社員が誇れる会社にしたいと気持ちを固めたのです。

地域(山辺)から生まれた舞米豚

 町民が1万5000人のところに、2万5000頭の豚を飼っているのが当社です。しかし、地元では買えるところがありませんでした。地元の皆さんに、おいしいと言っていただけることに生きがいを感じ、感謝できるようにすることが社長の理念でもあり、当社の大きな課題でした。

 地元で買える豚肉のブランドづくりを考えていたところ、町から「豚に町内産の飼料用米を食べさせてくれないか」という依頼がありました。環境問題を解決したことで、行政の人とも非常に近い、密接な関係ができていたのです。そして「舞米豚(まいまいとん)」が誕生しました。これによって、稲作農家とも、行政、地域社会とも強い結びつきができました。「豚の町、山辺だよ」「山辺は豚だよ」とも言われるようになってきました。

 現在、当社は地域から愛される会社として育ってきています。子どもに継がせたい会社、社員に誇ってもらえる会社となることは、私の願いでもあります。今日まで、社長がめざし、取り組んで来たことの大きさを改めて感じています。

継承し、進化すること

 私は経営理念に、「我々は、豚という仕事、命に密接した仕事にかかわる中で、食育や、その他のものを通して、小さい子どもたちにも命の大切さを伝えてゆかなくてはならない」と成文化しました。

 後継者が引き継ぐべき最も大切なものは、経営への「思い」、経営理念です。その思いを覚悟を持って引き継ぎ、紡いでいかなくてはなりません。社長との間にはさまざまな確執や軋轢(あつれき)もありましたが、社長は、伝えるべきものを全力で伝えてきたのです。同友会で学んで、2世代で経営指針を成文化したことも、大きな成果を生みました。

 私たちは、あこがれられる養豚業、そして、子どもたちの誰もがめざす養豚業界を創造していかなくてはなりません。課題はたくさんありますが、なせば成ると確信しています。

会社概要

創業 1965年
資本金 1000万円
年商 17億円
社員数 41名
業種 養豚業、堆肥販売
所在地 山形県山辺町大字根際
TEL (023)664-5280
http://www.pigfarm.co.jp/

「中小企業家しんぶん」 2010年 12月 5日号より