【平和特集】戦後処理は、未(ま)だ終っていません

(株)第一経理 相談役 河野 先(東京)

 私は86才になりました。74年前、中学1年の時に東京大空襲に遭遇し、医師だった父は深川富岡町の医院で行方不明。遺骨は焼跡の石です。1945年3月10日の空襲は、夜間の無差別爆撃で、わずか2時間半で10万人の死者、100万人の被災者で下町一帯は一面の焼け野原の廃墟と化しました。煙と異臭漂うなか、焼死体と溺死体に埋め尽くされた路(みち)を歩き、父を探し、学校にたどり着きましたが、あの生き地獄は今でも忘れられません。

 2007年3月9日、130名の方々と国を相手に「謝罪と賠償」を求めて、「東京大空襲訴訟」を集団提訴しました。6年にわたり地裁で10回、高裁で6回の口頭弁論がありましたが、2013年5月8日、最高裁で上告棄却でした。

 2012年8月10日に全国空襲被害者連絡協議会が結成され、この8月9日に第6回総会「私たちはあきらめない―空襲被害者救済法の実現まで」が開かれます。

 国は、軍人軍属には戦後54兆円余りの巨費を投じて救済・補償をしているのに、民間人はいまだに放棄したままです。

 最近贈られてきた本『「拓北農兵隊」―戦災集団疎開者がたどった苦闘の記録』石井次雄著(旬報社元社長)を読んで、改めてこんなに大変な苦労をされた方々の史実に驚くと同時に、国の棄民政策に怒りを感じています。

 石井氏は1940年横浜生まれ、1945年5月29日の横浜大空襲で被災、戦災集団疎開者として北海道夕張郡長沼村に入植しています。戦争に翻弄された戦災集団疎開者は、それぞれの入植地で数々の苦労があった具体的な内容が記述されていますが、同じ戦災被害者だった私も知らなかった史実に愕然とした次第です。「拓北農兵隊」についてはほとんど知らされていないだけに、改めて多くの方々に知ってもらうことが大切だと思っています。

 時あたかも、米朝首脳会談で敵対していた米国と北朝鮮のトップが新しい米朝関係の確立に向け、朝鮮半島の平和体制の構築と完全な非核化で合意しました。

 なし崩しで集団的自衛権の行使を容認する安保法制ではなく、今こそ平和の共同体が求められています。

 戦後74年を迎えるにあたり「戦争とは何だったのか」を学び直し、多くの犠牲で誕生した「日本国憲法」の理念を実現することこそが、私たち日本に課せられた責務だと思います。

「中小企業家しんぶん」 2018年 8月 15日号より