Ⅱ.ビジョン検討が、中同協での「情報化」のはじまり(1980年)

中同協としての組織の将来ビジョンを議論する場は、総会の分科会で過去2回設定されていますが、いずれも同友会創立時から運動にかかわってきた田山謙堂氏(中同協顧問)の私見をもとに意見交換されています。そこで議論された同友会活動に直接かかわるビジョンは、そのほとんどが具体化され、実行されてきています。

また、そのビジョンの中に「情報センター」や「情報のシステム化」がうたわれており、IT技術の急激な進歩によって、当時構想されたものと実現してきたシステムに違いはあるものの、その思いはひきつがれており今日につながっています。

1.1980年、中同協ビジョンに描かれた「情報センター」

1969年に中小企業家同友会全国協議会(以下、中同協)が設立され、11年後の1980年に開かれた中同協第12回定時総会(岐阜)の分科会の一つに「中同協の新方針と中同協のあり方・ビジョンを語る」がありました。当時、中同協幹事長(現・顧問)であった田山謙堂氏(千代田製油(株)社長、現・千代田エネルギー(株)会長)が報告を担当しています。

この分科会は、田山氏自身の個人的見解をもとに報告され、意見交換された内容が、将来中同協ビジョンを「成文化するときの貴重な財産となることを期待」して設けられています。

報告では、中同協は「同友会運動の経験や成果を広く中小企業全体に知らせ、成果を全中小企業等に還元していく」として、当時まだ月一回発行であった「中小企業家しんぶん」の旬刊化や経営に必要な事例集の出版、景況調査や会員の意識調査とその発表、政策要望の提言ができる組織となることなどが提案され、現在このほとんどが実行されています。

このとき提起されている「全国レベルでの各種事業活動」のひとつに、「情報センターの設置」があげられていました。

ここでいう「情報センター」は、「重要品目・特定商品の市場標準プライスや需給関係を流していく」とし、媒体としては冊子を意識し「定期購読料制度」を設けることを提案しています。これはすなわち、中同協が会員や各同友会が必要とする情報のセンターになり、集約・発信できる組織となる必要があることが提案されており、媒体をインターネットなどに置き換えれば、中同協ではすでにその役割を担っていると言えるでしょう。引用は「中同協」25号から

2.バブル崩壊後1993年時の中同協ビジョンに描かれた、情報のシステム化

バブル経済崩壊後、93年に開かれた第25回定時総会(北海道)は、総会宣言で「21世紀型中小企業づくり」が提唱され、バブル経済崩壊の教訓を生かし、新しい時代が求める企業のありようが提唱されました。それと同時に、90年に体系化された同友会理念に学び、運動の輪を広げることを、「ひろげよう同友会の輪を、ひろめよう同友会の理念を」のスローガンに掲げています。

この総会の第1分科会は「同友会運動の歴史と理念~その先見性と普遍性」として、田山謙堂・中同協相談役幹事(当時)が同友会のあゆみを振り返るとともに、私見として「将来ビジョン」以下の6点をあげています。①47都道府県に同友会をつくること(当時39都道府県)、②各同友会の質量的発展に協力・援助する、③各同友会の政策や要望を集約、中同協独自の政策立案機能、④同友会としてのマクロで見た地域貢献、⑤中小企業の海外進出と国際貢献の在り方の検討、官庁との連携、⑥各同友会の豊かな活動や情報をシステム化する。(「中同協」51号第1分科会報告から要約)

現在はこの⑤の海外進出部分を除くすべてが実行されているといっても過言ではありません。

「⑥各同友会の豊かな活動や情報をシステム化する」ことについて、中同協としては、全同友会をネットワーク化し、相互に活動交流ができる環境が漠然とイメージされていました。インターネットが一般化されていない当時、全国規模のネットワークは、メインフレーム(汎用機)と専用線で端末となる拠点のコンピューターを結ぶシステム構築が想定されていました。そのため将来に向けた財政的裏付けをつくろうと、その後積極的に運動基金が積み立てら、実際93年当時は6000万円ほどだったものが、中同協の情報化システムが構築され始める2001年までに9000万円が積み立てられています。

急激に日本経済が収縮していく中、全国的に会員数の大幅な伸びが期待できない状況下で、会活動の質が求められ、密度の高い交流と関係性や発信力の強化、実務の合理化が図られると同時に、活動の武器として同友会活動においても90年代後半からIT活用が急激に進んでいきます。