念願の中間処理場完成! (株)高崎クリーン 専務取締役 高崎 文孝(福島)

【絆―復興をめざして】第24回

 震災発生から5年目の節目に、福島同友会から発行された『逆境を乗り越える福島の中小企業家たち』(2017年2月24日発行・執筆は2016年秋)より、会員企業の復興の軌跡をシリーズとして数回にわたり掲載します。第5回目は高崎氏の報告です。

 2011年3月11日午後2時46分、突然の強い揺れに襲われました。それは、今まで経験したことのない強く長い揺れでした。

地域から人がいなくなる

 後ほどの調査によると、いわき市は、震度4以上の揺れが、3分10秒くらい続いたそうです。私の感じとしては、5分、10分以上揺れていて、このまま日本がなくなってしまうのではないかと思えるほどでした。そのような巨大地震が起きてしまったので、当然、沿岸部に住んでいた私は、津波のことが真っ先に頭に思い浮かびましたが、これほどまでに巨大で恐ろしい津波が広範囲にわたり押し寄せてくるとは予想もできませんでした。

 当時、地元消防団に所属していた私は、津波により行方不明になっていた方々の捜索活動をする傍ら、3月14日の月曜日から通常の業務に戻れるよう事務所内の片付けを社員数名とともに行っていました。

 そのような慌ただしい中に、3月12日の午後、福島第一原子力発電所の爆発事故が起こりました。大変な事態が起こったことは容易に想像できましたが、放射能がどのようなもので、どのような危険が及ぶのかなどその当時は、見当もつかなかったことを思い出されます。

 しかしながら、数日が経過するころになると、テレビなどで放射能の体に及ぼす被害など連日のように取り上げるようになり、一時は、私自身も避難することを考えましたが、最終的には、家族全員で、いわき市の自宅で過ごすことにしました。

 しかしながら、みるみる間にいわき市内からは人々がいなくなってゆき、今後、いわき市はどうなってしまうのだろうかと考えたことが思い出されます。当然、いわき市から撤退せざるを得ない企業も出てきました。

ピンチをチャンスに

 私の会社は、廃棄物処理の業務をしているので、震災後、企業や小売店、家庭の壊れた物の処理業務の依頼が多少ありましたが、原発事故により避難している社員も多数おりましたので、少数の社員での営業をしておりました。1カ月ぐらい過ぎたころになると、多少落ち着きも取り戻しており、社員もほとんどが出社するようになっていました。

 今後、お客様や仕事がなくなるのではないかと不安な中、同友会の本部からは、阪神淡路大震災での経験を基に、今後の見通しや補助金情報など重要な情報をいち早くメールにて配信してくれていたのを心強く感じ、勇気づけられました。いわき地区の会員の中でも、「下を向いていたのではダメだよ」「ピンチをチャンスにとらえていこう」などと互いに励ましあっていました。同友会いわき地区の会員が、今後、仕事を続けていけなくなり脱会する者も出てくるであろうと考え、建設業務などさまざまな業務を請け負い、そのような会員の受け皿になれればよいと数名のいわき地区会員により社団法人を立ち上げました。しかしながら、いわき地区同友会の会員は、1人として震災が影響して脱会する者はおりませんでした。

 やはり、同友会の会員は、雇用を守り、地域経済活性化を常に意識して経営しているせいか強じんな経営体質の方が多いのだと感心しました。

念願の中間処理場完成

 震災当時の弊社の業務は、産業廃棄物の収集運搬業務のみでしたが、以前から、中間処理業務を行いたい夢がありましたので、ずっと前から土地、建物を探していました。震災から半年後くらいに、知り合いの不動産屋よりちょうど良い物件を紹介いただきましたので、すぐに許可申請を行いました。1年半くらいの申請期間はありましたが、2014年2月に念願の中間処理場が完成いたしました。当初は、慣れない業務に戸惑いながら、お客様や社員に迷惑を掛けながら試行錯誤での営業でしたが、現在では、通常の業務として、お客様にご迷惑がかからぬよう営業することができるようになっております。やはり、常に、夢を持ち経営すること。さらには、それを仲間に伝えること。そうすることで、道は開けるのだろうと思います。まだまだ道半ばですが、今後は 1つひとつ経営課題を克服していき、よい会社、よい経営者に一歩でも近づけるように努力をしていきたいと思います。

(株)高崎クリーン会社概要

創業:1967年9月1日
従業員数:40名
事業内容:産廃・一般廃棄物処理業・一般貨物運送業
所在地:いわき市泉町下川字大剣1-176

「中小企業家しんぶん」 2018年 2月 5日号より