【黒瀬直宏が迫る 戦後中小企業史】第2回 戦後復興期(1945~55年)の中小企業経営 NPO法人アジア中小企業協力機構 理事長 黒瀬 直宏

低賃金に依存する「停滞中小企業」

 前回述べたように、朝鮮戦争をきっかけに、中枢産業の巨大企業を筆頭とする大企業セクターが国民経済を支配・主導する大企業体制が再構築される一方、中小企業は「収奪問題」など深刻な中小企業問題に襲われました。そのため、当時の大方の中小企業は次のような経営状況でした。

 機械を更新する余裕はないため戦時中からの老朽化した汎用機で加工し、生産管理の知識も欠けていたため、物的生産性は低いままでした。また大企業分野は寡占体制の再構築で競争制限的になる一方、中小企業分野は企業の乱立で過当競争に陥ったため不利な価格関係を強いられました。以上のため付加価値生産性(物的生産性×製品1単位当たり付加価値)は低く、低賃金という消極的要因によって存立する「停滞中小企業」が大方を占めました。大企業と中小企業の格差は大きく拡大し、後に日本の二重構造問題と呼ばれるような状況が形成されました。

一部における中小企業の発展

 しかし、すべての中小企業が「停滞中小企業」だったわけではありません。戦時統制からの解放による経営の自由が「新しいこと」を行う人=企業家を生み出しました。彼らの中から、原動機付き自転車の開発からオートバイ生産へ事業を発展させた本田技研のようにやがて到来する高度成長期に大企業へ発展する企業が現れました。

輸出軽機械工業

 この時期、1950年代前半からすでに国民経済上の重要性を持つ発展をしたのがミシンや双眼鏡などの輸出軽機械工業です。

 ミシンは大阪で、双眼鏡は東京都板橋区で産業集積を形成しました。両者ともアセンブリー・メーカーと部品メーカーに分かれ部品を標準化したうえ、多くの企業が部品1種類のみ扱うというように専業化しました。その担い手たちは戦前、シンガーミシンのセールスマン・故障修理者だった者(ミシン・アセンブリーメーカーへ)旧軍需工場の失業熟練工(ミシン部品へ)光学兵器メーカー東京光学(現トプコン)の熟練工たち(双眼鏡へ)でした。

 彼らが生み出す製品は一貫作業方式の大企業をはるかにしのぐ競争力を持ち、ピーク時にはミシンはアメリカ市場で60%以上、双眼鏡は100%近いシェアを占めました。この競争力の要因は低賃金だけではありません。標準化された特定部品への部品メーカーの専業化が少品種大量生産による高品質・低コストを実現しました。この部品製作の技術的革新性がアセンブリー製品の品質と価格競争力を高め、それによる市場拡大が部品生産の量産性を高め、生産の機械化も進めるという好循環が形成されました。

 この中小企業の専門化と大量生産化は戦前には見られなかったものです。輸出軽機械工業はアメリカ市場の拡大に技術的裏づけを持って乗ることで発展した戦後復興期の「代表的発展中小企業」といえます。

 輸出軽機械工業の社会的分業体制の形成は企業家活動のたまものです。最初に自分の持つ技術・技能を市場で生かせることをいち早く察知し行動を起こした人たちがいたに違いありません。それを見習う人々が続々と現れ、自然発生的に分業が形成されていきました。小零細事業者たちの「その場その場」での事業機会の発見が分業形成の原動力になったのです。

 だが彼らには重大な限界がありました。ミシンも双眼鏡も海外のバイヤーズ・ブランドで売られ、自ら需要開拓と製品開発を行うことができませんでした。そのため、企業間での過当競争や発展途上国の追い上げにより価格競争が激化。さらに賃金も急上昇し、1960年代に入り企業数は減少し始め、円高に襲われた70年代に衰退は決定的となりました。

 このように輸出軽機械工業の企業家活動は技術面に偏り「独自市場」の構築・価格形成力の獲得はできなかったため「企業家的中小企業」とはいえず、企業家活動が一部にとどまる「半企業家的中小企業」でした。

「中小企業家しんぶん」 2021年 12月 5日号より