【黒瀬直宏が迫る 戦後中小企業史】第8回 減速経済期(1974~90年)の中小企業問題(2) NPO法人アジア中小企業協力機構 理事長 黒瀬 直宏

 「戦後中小企業史」をテーマにした黒瀬直宏氏(嘉悦大学元教授)の連載。第8回は、減速経済期(1974~90年)の中小企業問題(2)です。

 前回は減速経済期に始まった中小企業問題の悪化のうち、収奪問題と市場問題を取り上げました。今回はまず経営資源問題を取り上げます。

借入れ難の緩和(優良中小企業)

 大企業は1974~75年の不況をきっかけに減量経営の一環として借入返済を加速しました。80年代に入ると輸出拡大により収益が急増し、80年代後半の巨額の円高差益で内部留保を高め、新株発行による資本調達も推進しました。こうした大企業の銀行離れのため、都市銀行は優良中小企業への貸出し、特に金利の高い長期資金貸出に力を入れました。その結果大企業への融資集中は解消され、全金融機関の中小企業向け貸出残高比率は1975年末の6.6%から90年末66.8%へ上昇、中小企業の宿痾(しゅくあ)だった長期資金の借入難と借り入れの不安定性に改善が見られました。

 ただし、貸出増加は優良中小企業中心ですから、それ以外の中小企業、特に小規模層では依然借入難が続き、借りられても、大企業より高い金利担保や保証人に関する厳しい条件は改善されずじまいでした。しかも、収奪問題や市場問題のため中小企業の内部資金の蓄積も抑えられたため、中小企業全体としては資金繰りDI(資金繰りが「楽である」とする企業割合から「苦しい」とする企業割合を引いたもの)は、この時期ほとんどの期間でマイナスでした(日銀「短観」による)。借入難に緩和は見られたものの、中小企業の資金難の解決には至らなかったのです。

労働力は質的不足へ

 減速経済化により1970年代半ば以降労働力需給は大幅に緩和しました。しかし多くの中小企業では中核労働力の不足のため、依然労働力不足が意識されていました。労働力不足には仕事量に見合った従業員を確保できないという量的不足と中核労働力の不足という質的不足があります。中核労働力とは、柔軟な対応力を持つ若年労働者、熟練技能・技術開発・マーケティング能力を持つ専門人材、マネジメント能力を持つ管理人材、そして、企業存続に必要な経営後継者などです。中小企業においても不況期には量的不足は解消されますが、質的不足は慢性化しています。新分野進出など市場問題悪化への対応に不可欠なのは中核人材ですから質的不足は高度成長期以上に強まりました。また、80年代に入るあたりから零細企業の後継者難が目立ちはじめました。戦前または戦後まもなく創業した経営者が高齢化しましたが、子の関心は安定した就業先に向けられ、後継を望まなかったからです。なお、80年代末にはバブル景気の過熱生産年齢人口の増加数の急減などにより労働力は量的にも不足となり中小企業の「人手不足倒産」が現れました。

立地問題(住工混在問題)

 この時期、重化学工業化の産物である都市過密化が住工混在を拡大し、中小企業の立地環境を悪化させました。大都市・大工業地帯への人口集中のため民間デベロッパー(民間不動産・建設企業)は工場地での工場跡地などを利用した住宅開発にも手を付けました。そこに転入する新住民から工場騒音などが「公害」として指弾され、移転力のない企業は夜間操業の短縮など操業を制限されることになりました。地方都市でも状況は似たり寄ったりで立地問題は中小製造業の基盤を揺るがしました。

格差再拡大と零細事業所の減少

 減速経済期は借入難に緩和が見られたものの総じて中小企業問題は悪化しました。このため60年代に縮小した中小企業・大企業間の賃金と付加価値生産性の格差は70年代後半から再び開きはじめ、90年には66年時点の格差を超えてしまいました。中小企業問題の悪化は特に零細事業所に打撃を与え、零細事業所数は81年をピークに減少に転じました。

 ただし、この時期に進んだ産業の高加工度化を新たな発展機会とする中小企業も出現しました。中小企業問題悪化に抗する中小企業の発展も見られたことを次回述べます。

「中小企業家しんぶん」 2022年 3月 15日号より